ガガガと急激に状態が悪化していく母。慌てて介護保険申請等の手続きをした結果、「人がめっちゃたくさん母に会いに」来た!
病気療養中にもかかわらず、過密なスケジュール
- 10:00〜 介護認定の調査員による面談
- 10:30〜 訪問看護ステーションの看護師さんによる点滴などのケア
- 10:45〜 訪問診療クリニックの看護師による初面談
- 15:00〜 訪問介護士の面談、介護ベッドの搬入
なんということ…。訪問が重なってしまい、一番多いときには10名くらいの人が小さな我が家にひしめいていた(笑)。
訪問ラッシュの皮切りは介護認定の調査員さんだった。
まずは介護認定の調査員さん
介護認定の調査員の方は母の日常生活動作(ADL)の自立度(物理的に動けるか否か)や、通帳の管理方法などを本人と家族から聞き取り、介護保険の申請書に必要な記載事項を確認した。
母は昨日よりは意識もしっかりした様子で、調査員の質問に対してワンテンポ遅れつつも頷いたり、首を横に振ったりしながらちゃんと答えていた。
ぱっと見で母の調子が悪そうだと悟った調査員の方は、母への面談を15分程度で切り上げてくださり、あとは家族の私が細かいことに回答して1時間程度の面談が終了した。
つづいて訪問看護ステーションの看護師さんによるケア
調査員さんとタイミングがほぼ重なるようにして、訪問看護ステーションの看護師さんが2名やってきて、母の身の回りのケア(お風呂、ストーマのケア、口腔ケア等)を行ってくれた。
ここで、看護師さん曰く
「介護ベッドを部屋の真ん中において、お母さんを両側からケアできるようにした方が良い」
当時、母が利用してた療養部屋は狭く、ベッドの片側は壁付けで人が入る隙間はない。ましてや介護ベッドなど入りもしない。
今後のことも考えると、介護ベッドをレンタルしたほうがいいというアドバイスもあったので、取り急ぎ和室一室を徹底的に片付けて母の療養部屋を新たに設けることにした。
そのあと、看護師さんが手際よく介護士さんや介護用品レンタル業者さんに連絡をとってくださり、その日の夕方には介護ベッドが家に届くことになった。
やばい。超特急で部屋を片付けねば…!
ということで、前日夜県外から召喚した姉3と、妹と父が超特急で家具を移動し、部屋を片付けた。
訪問診療のクリニックから看護師初登場
訪問看護師さんによる母のケアが終わるころ、母が通っていた病院が手配してくれた訪問診療のクリニックから看護師がやってきた。
母の状態は病院からクリニックに共有されていたのだが、男性看護師T氏は母の状態を見て、少し表情を曇らせた。
そして、ここ数日の状況を話し「2〜3日前から尿が出ておらず、尋常じゃないほど両下肢が浮腫んでいる」という話をするとT氏は青ざめた…。
「先生に導尿カテーテルの相談をしてみましょう」と電話を手にとった。
母は病気になる以前から「管につながるのは絶対に嫌だ!」と言っていたため、そのこともきちんとT氏に伝えると彼は母に丁寧に状況を説明して母の同意を取り付けた。すごい。できる男!
その後は、2人の訪問看護師さんとT氏の連携により迅速な処置が行われ、1リットル以上もの尿が導尿された。
管がついてしまったものの、母はスッキリして少々安心したような表情を見せ、3名の看護師に身を任せきっていた。
訪問介護士とベッドの登場
そして夕方。訪問介護士と介護ベッドがやってきた。
訪問介護士の方々は利用できるサービスについて説明してくれたが、その内容がほぼ訪問看護師がやってくれている内容とだぶっていたため、今回は介護ベッドのレンタルにとどめ、しばらく様子を見ることにした。
介護ベッドのレンタル、というものが一体いくらするのか少々怯えたが、介護保険の申請が下りる前に発行された仮の介護保険証が利用できるようで、最終的に¥778でレンタルできてホッとした。
リモコンで背もたれと膝、下肢の部分があげられるタイプで、スタッフが手際よくベッドを組み立て、簡単に使い方を説明してくれた。
おかげさまで、看護師さんや介護士さんの負担が軽減されるばかりでなく、私達介護のド素人でも母の体位変換を簡単に手伝うことができるようになった。
(おそらく)動揺している父の様子は…
仰々しい介護ベッドが入り、母の最期をひしひしと感じるようになって、父も流石に動揺し始めたのか酒に逃げた。
普段から日常的に一定量の飲酒習慣はあったが、流石にこの時期は量が増え、「介護ベッドの横で眠る」と少々ダダを捏ねたりした。
「おじいちゃんはイビキがうるさいからおばあちゃんがゆっくり眠れない。隣の部屋で寝て!」という孫の説得に、すごすご隣室に移動し電池が切れるまで父は酒を飲んだ。孫、強し…。
弱っていく母の手を父はさすっていたが、あいにく母は心底嫌そうな顔をしていた…。
おそらく、これは昭和の一般家庭のテンプレートなのだ。私の家も父親が仕事仕事で家庭に不在だった。いつの間にか生まれている夫婦の埋まらない溝。それが、死ぬまで続くのが昭和の一般家庭のテンプレートなのだ。
父も家庭を維持するためにがむしゃらに働いていたと思う。母もまた、娘らを育てるのに一人でがむしゃらだったと思う。その結果がこれだと思うと、あまりにも悲しい。
もう少し母が元気だった時期、療養部屋を父が普段眠っている寝室に移そうと相談した折、母は全力で拒否していた。その話を訪問看護師さんが「あるある〜」っと共感してくださった。悲しいかな、日本中の介護現場でどうも普通によくあること、らしい。
その日、初孫は夜な夜な号泣し目を腫らせた
その日の夜、母にとっての初孫は号泣し目を腫らせていた。
彼女にとって、身近な人の死は生まれてはじめての出来事だったのだ。小さい頃から共働きだった彼女の両親に代わって毎日面倒を見ていたのは私の母だった。
母が60を過ぎてから免許をとったのも、かわいい孫娘の送迎のために必要だったからである。
孫と祖母の間には、また特別な時間・特別な関係性があったのだ、と思った。
私や、姉3は残念ながら母に対してあまり良い感情を持っていなかった。母はいわゆる軽い「毒親」だったと思う。だからこそ、こうして死にゆく母に対して淡々と記録を残せるのだ。
5人も娘がいると、母とそれぞれの娘との関係性もまちまちで、私や姉3は未だにいろんな心の傷やトラウマを抱え解消するのにあくせくしているし、自己肯定感もかなり低い。長女や次女、5女はそうでもないようだ。
子どもに対して「平等に」接することなど土台無理な話なのだと、実体験から思う。
人は生きている間に、多くの人々と関係性を結び「生きている痕跡」をそこかしこに残す。いいことも、悪いことも。
この日、秋の台風が沖縄本島に直撃するかも?という可能性が出たため、急遽県外から姉2が戻ってくることになった。
家族が、全員揃うことになった。