自宅に訪問看護師さんが来てくれるように手配をして、母も私達家族も少しほっとした。この時期は家の中の移動はまだできていた。
点滴のおかげで黄疸も少し改善していて調子も良い様子だった。
この時、母から通帳やら生命保険の書類やらを預かった。
来月の予定(父の定期外来の付添)について「(家族の他の)誰かにお願いしないとね」とこぼしていたので、自分の最期について、なんとなく予感をしていたのかもしれない。
薬の副作用もあってか口の中が乾くようで少し喋りにくそうだったので、気がついたら口に水を含ませることができるように乳幼児が使うようなストロー付きの蓋付きカップ(目盛り付き)を用意した。
母の食事や水分の摂取量、体調、薬の服用時間などをメモしておくノートがいつの間にか自然発生的にできていた。
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母しか知らない契約の類を徹底的に片付ける
このあたりから「母しか知らない契約類」の洗い出しと解約業務に着手した。
ヤク○トとか、置き薬とか、預かった通帳から引落関連を洗い出してよくわからないものは母に都度確認しながら必要がなければ解約の手続きを進めていった。
また、母が借入したオール電化工事の支払残金について、自分が死亡したあとの死亡保険金で処理するようにと指示を受けた。
作業をすすめる中で、「自分が死ぬ時」のことも考えた。
自分が死んだあとはPCとかタブレットとか、WEBのドメインとかレンタルサーバーとか、それこそ「家族にも(自分にもw)よくわからん」ようなややこしいものがたくさんあるよな…と気付いてしまい、いつ死んでもいいようにこのあたりも整理しておかねばと思った。
本当に、事故で急逝する可能性だってあるわけだし、「自分がいつまで生きているか」なんてわからないのに、根拠もなく「自分の「その時」はまだずっと先のこと」なんて思い込んだりしてて、ああ、思い上がっているなあ、などと反省したりした(笑)。
家族のストレス
一時期閉尿のような症状があったが、意識的に水分と適宜な塩分を取るように改善したら症状も改善しトイレの回数も増え濃かった尿の色も薄まってきているようだった。
ただし、両下肢のむくみはひどいので座っている時やベッド上でも運動できるようにストレッチボールを用意しておいた。
これから母の体にどういうことが起こるのか全く未知なので、この時期の私のPCの検索履歴は
- 末期がん 終末期
- 大腸がん 肝転移
- 末期の症状
- 死の兆候
などといった不穏なワードで埋め尽くされていた。同居していた姉なども毎日気が気でなかったかもしれない。
私もこの時期、眠っているときに急に大きな音が鳴って飛び起きたらそれが夢だったこともあった。「頭内爆発音症候群」というらしい。
幸い、「頭内爆発」がおきたのは(笑)その日1日だったが他の家族も含めなんとなく眠りが浅い日々が続いていたと思う。
起床後はすぐ「母の具合は?」のチャットで始まるのが日課になっていた。
母は食事以外はベッド上で過ごすようになっており、「トイレまでが遠い」とぼやいていた。
母には可愛がっている老犬がいて、普段は母のベッドの下に常駐しているが母がトイレに立つときには付き添って母が出てくるまでトイレの前で待機する、という名介護犬的仕事ぶりを発揮していたのが頼もしかった。
葬儀の事前相談に行く
「葬儀代は積み立ててあるから心配しないで。それを使って必要最小限の葬儀をお願いします。」と、母からも父からも元気なころから頼まれていたので、積立をしている会社に事前相談に行った。
特に、コロナ禍中の葬儀は一体どうなっているのか?と心配だったし、少し早いとは思ったが思い切って事前相談してみた。
沖縄の葬式はコロナ禍中でも変わらない
葬儀会社によると沖縄は親戚づきあいが濃いため、コロナ禍中といえども通夜・告別式に人がたくさん集まる、ということだった。
田舎…。おそロシア。
一方で密を避けたい喪主は通夜・告別式を行わずごく限られた親族で火葬場にて直葬を行うケースも増えているとのこと。うーむ。そうだよな。
が、しかし!新聞に死亡広告を出してしまったら最後、自宅に100人、200人も押しかけて来る、といったケースもあります、と葬儀会社の方が教えてくれた。
おそロシア…田舎(笑)。
このコロナ禍中で、ジジババが集まるのは極力避けたい
ジジババの命を新型コロナウイルスから守るためにも、我が家は新聞への死亡広告は出さず、ごくごく限られた親族で直葬を行うことに決めた。
父は少々不満げではあったが、一応この段階で家族みんなで合意に至った。
母に意識症状が出始める
一方母はというと、疼痛や腹部膨満感の投薬コントロールが上手くなってきたはずなのに、急に腹部の膨満感がきついと訴えてきた。
聞けばレスキュー薬のナルラピドが残り2錠しかないと思って節約して服用していたという。
そんな訳ないと思って探したところ、かばんの中から30錠見つかった。
- ピルケースに後で移そうと思って(その時は全部入りきらなかったから)かばんにいれたまま放置していた
- その薬の存在をすっかり忘れていた
らしい。さらに
- 朝服用する薬を夜も服用しようとする
など多少心配な症状が出始めていた。
最後の定期外来受診
1週間ぶりの外出となる外来受診だが、母の状態は格段に悪くなっていた。
いつもどおり朝5時におきてシャワーを浴びてストーマを交換し、外来受診の準備をした。(おそらくこの一連の習慣は非常にきつかったと思われる)
シャワーを浴びることが辛くなっていたので、お風呂場に背もたれ付きの椅子があれば嬉しい、というので
- 背もたれがついていて
- プラスチック製でぬれても大丈夫で
- 滑りにくそうな椅子
をニトリに調達しに行った。(結局1回も使わなかったけど…)
姉と妹が母を外来に連れ出している間、私は父と二人で椅子の調達に向かい、道中で母の状態について話をした。
父と母は年の差結婚で、結婚した当初から父は「自分が先に逝くのが当然」と思い込んでいたし、私達姉妹も当然そうなるだろうと予想していた。
が、しかし刻々とご飯が食べられなくなっていく母を見て流石に不安になったようで、「今年の年越しは越せるだろうか?」と聞いてきた。
私は内心「楽観的!」と思いつつも「年を越すのは厳しいと思う、正直あと1〜2週間だと思う」と父に告げた。それを聞いた父は驚きつつも、取り乱したりすることはなく淡々と受け止めていた。
1週間ぶりの体重測定で1.3kg増!
一方、この時母は家から出る際に軽く転倒し、自力では立ち上がれなくなっていた。
おそらく腹水によるものだと思うが1週間で体重が1.3kgも増えており、筋力低下もあいまって自分の体を支えきれなくなってしまったようだった。自分の体に起こる変化に対応できなかったんじゃないかと思う。
また、がん細胞は大変に栄養を喰うようで、周囲の細胞から栄養を奪い尽くしたあとは骨格筋で使う分のエネルギーまで浪費するとのことだった。どこまでも貪欲ながん細胞…。
加えて、病気療養で筋力も大幅に低下し、股関節の屈曲(椅子に座ったままで太ももを上げる動作)が自力ではできなくなってしまっていた。
外来では朝1回服用する持続性のある麻薬鎮痛薬ナルサスが4mgから6mgに増量となり、一人での入浴は転倒の危険があるため、訪問看護師に頼るようにと先生から指導があった。
訪問診療の医師も紹介してくれることとなり、事実上手術をしてくれた先生の外来は最後となった。
擦り傷から醤油のような血が
母は朝転倒した際、少し手を擦りむいたようで傷ができていたのだが、そこからまるで醤油のような色の血が出ていた。
擦りむいたことに母もしばらく気づかなかったようで、どす黒い自分の血をみて少し驚いていた。
母が転倒したことをうけて、介護用品を売っているホームセンターに立ち上がりを補助するための補助具を買いに行った。
一方で補助具を用いてトイレに行き来ができるよう自宅内で動線を確保する必要あったため、急遽実家の大断捨離が始まることになったのだった。