目次
河村 雅美(The Informed-Public Project 代表)
Dr. Masami Kawamura
2016年5月8日
2016年4月25日の琉球新報が報じたとおり【1】、読谷村補助飛行場跡地で土壌汚染が発覚し、2年間放置されたまま農地整備が進められていたことが筆者の沖縄県への情報公開請求で明らかになった。
沖縄県事業「平成20年県営畑地帯整備事業(読谷補助飛行場跡地)」で、2013年の不発弾調査中に廃棄物が発見され、沖縄県が土壌を調査した結果、調査地点から基準値を越えたダイオキシンと鉛が検出されていた。
今回、問題になったのはこの土壌汚染に対処する責任がどの機関にあるかが明確でないために、「たらい回し」となり対策が遅れ、結果的に2年間汚染土壌が放置されたことである。土地の所有者である読谷村が処理の責任があるとされ、的確な汚染範囲の確定がされずに、農地整備の事業が進められている。
読谷村は「所有者、米軍への提供者であった国の責任で原状回復してほしい」と、管理責任を問う形で防衛省や沖縄防衛局に、対応を求めている。一方、防衛省や沖縄防衛局は「米軍の行為に起因するものでない」と処理を拒否している。報道によれば、沖縄防衛局は「地元業者が廃材や車両置き場として使用し、焼却していた。土壌汚染除去などを防衛省が実施することは困難だ」と主張しているとのことである【2】。聞き取りによると、読谷村も、地元民がゴミを捨てていることは認めている【3】。当時、調査をした沖縄県も、汚染の状況を知りながら土地の所有者が廃棄物処理の責任者であると、読谷村に対処を預けたままである。
なぜこのような問題となるのか。
まず、これまでに返還された土地の汚染調査が不十分であったことがあげられる。2012年に成立した「沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法」(以下「跡地利用特措法」)以前は、跡地の全面調査は義務化されていない。
また、このような事態に対応する法や制度が不在であることもある。跡地利用特措法は、2012年以前に返還された土地には適用されない。この問題が解決されていないため、2013年の沖縄市サッカー場ドラム缶問題、2015年に公表された北谷町上勢頭第2区の宅地の土壌汚染問題も依拠法はなく、跡地利用特措法に準じる形で沖縄防衛局が対応している。
さらに米軍に起因する汚染であるかどうかで国の責任で処理するかどうかが判断されていることも問題である。沖縄市サッカー場、北谷町上勢頭第2地区は、汚染は米軍に起因するものとして判断され、沖縄防衛局が対応している。読谷村は米軍に起因するものではないと処理を拒否している。
本レポートではこの3つ目の問題に焦点をあてる。米軍基地跡地の汚染の問題は、読谷村のケースで防衛省が主張しているように、米軍起因であるかの「認定」問題として処理することができるのかといえば、そうではなく、より複雑な様相を呈している。
ここでは、沖縄の米軍基地跡地の特徴とは何なのか、関係機関はこれまで、どのように判断し、対処してきたかを示す。これをもとに、沖縄で行われるべく現実的な対応策について考察し、法整備の問題の解決を提言したい。
要約
- 県内の基地跡地の汚染は米軍や民間(沖縄側)の投棄が混在しているという現実がある。
- 返還されて時間が経過している土地で発覚した汚染に関する法整備が跡地利用特措法ではされていない。
- 明らかになってきた沖縄の基地跡地の現実をふまえ、読谷村の問題を「米軍ゴミ認定問題」として扱うことは妥当でない。国はその理由で対応を拒否すべきでない。
問題の背景
ここでは、上述の沖縄市サッカー場、北谷上勢頭第2地区、読谷村の3事例をとりあげ、沖縄の米軍跡地問題の特徴をあぶり出す。
この3事例は、以下の共通点がある。
- 返還されてから時間がたっている米軍跡地であり、十分な汚染調査はされていない土地であること。②状況証拠からゴミ捨て場となっており、投棄による汚染であると推測されること。
- ダイオキシンの単独汚染でなく、複合汚染が確認されること。
- 結論を先取りすれば、沖縄の基地跡地は米軍だけでなく、沖縄側の投棄も認められ、投棄者が単独でない、「複合投棄」のケースがあるということである。また、これまでの例では調査途中でその事実が判明したものや、証言や地籍図、地盤高などの状況証拠で米軍由来と判断した事例もあり、必ずしも政府側の確固たる基準があるわけではない。
このような実情をまず把握する必要があると考える。
以下、各事例をみてみる。
(1)沖縄市サッカー場:「ダウ・ケミカル」のドラム缶の印章による判断
沖縄市サッカー場は1987年に米軍から返還され1996年にサッカー場として使用が開始された。「返還後既使用跡地」であり、「返還したての跡地」ではない。
2013年6月に嘉手納飛行場跡地の諸見里サッカー場の工事中にドラム缶が発見された時は、「枯れ葉剤」メーカーの「ダウ・ケミカル」の印章が認められたため、沖縄防衛局が米軍由来と判断し調査を開始し、現在に至っている。2011年からのジョン・ミッチェル氏の退役軍人のドラム缶埋設などの証言をもとにした枯れ葉剤報道も国による調査実施の世論を後押ししたと考えられる。
全面調査では、1964年頃に6-7人の米軍人が現在のサッカー場付近でドラム缶を転がして土をかぶせていたという聞き取り証言が沖縄市側から提供されている【4】。
しかし、調査では廃棄物は必ずしも米軍のものだけではないことが明らかになっている。沖縄防衛局は全面調査で、地歴や地層の調査を実施し調査結果を公開している。米軍遺棄物とは考えにくい遺棄物や、新しい時代の廃棄物も発掘されており、いわば「サッカー場の考古学」ともいえる結果がそこには現れている。
具体的な調査結果としては、2014年3月4日沖縄防衛局「沖縄市サッカー場にかかる追加調査の状況について」【5】で発表されている磁気異常点の試掘結果が、わかりやすい例である。「発掘物の分布状況(代表例)」の図で、米軍遺棄物とは推測できない廃棄物が示されている【6】。
また、「発掘物の履歴等(年代が古い順に並び替え)」では1960年から1998年にわたる発掘物の履歴が示されている。
その後、駐車場側も調査が実施されたが、さらにドラム缶や廃棄物が発見されている【7】。
このように、米軍遺棄物による跡地汚染と認識された沖縄市サッカー場も、実際は沖縄側の投棄物も多くみつかっており、投棄物が米軍、民間のものと混在していることが確認されているが、沖縄防衛局が調査し、汚染土壌や廃棄物処理をしているのが実情である。
(2)北谷町上勢頭の廃棄物:町による「米軍ゴミ捨て場」の「立証」
2015年に公表された北谷町上勢頭の土壌汚染は、1996年1月31日に嘉手納飛行場南側部分2.1haが返還された上勢頭第二地区の土地区画整理事業地である【8】。周辺は黙認耕作地であった。
95%が町有地であり、町が主導性を発揮して県内初の個人施行(共同施行)の土地区画整理を行った。地権者が5名であるため協力を得やすく、給付金の支給期間である3ヵ年の短期間での事業の完成となった。事業経過に関しては以下のとおりである。
- 本工事着手:1997年1月6日
- 使用収益開始:1998年11月27日
- 換地処分:1998年11月27日
- 終了認可:1999年3月19日
この時期に適用される跡地に関する法制度は、1995年に成立した「沖縄県における駐留軍用地の返還に伴う特別措置に関する法律」(以下「返還特措法」)であり、給付金支給が「返還日の翌日から3年間」であった。この返還特措法では、跡地整備が返還から事業完了まで10年以上を要する中で給付金の支給期間が短く、所有者等の負担が大きいことが問題となっていた。そのため、2012年に成立した「跡地利用特措法」では「引渡日の翌日から3年間」と改正されている。
また、「返還特措法」では土壌汚染等について、調査を行う蓋然性がなければ予算を確保できないというシステムとなっていた。そのため、区画整理中に汚染が発覚するという事態が2003年に返還されたキャンプ桑江北側の一部の桑江伊平地区区画整理事業でも起きている。
上述の状況などから、給付金の支給期間が短期間であるため、十分な調査を引渡し前に実施することが困難な状況であったことが推測される。
この地区の地権者土地における土壌汚染が発覚したのは2011年5月のことであった。地権者は、土地売買の契約をした北谷町に土地の健全化を要求したが、北谷町が沖縄防衛局に調査と処理の要請を行ったのは2012年9月である。その後、防衛局が予算を確保して調査を開始したのは2015年3月のことであり、汚染発覚から国の調査が開始されるまで4年弱の年月がかかっている。
この間の北谷町の対応についての問題については別に論ずる必要があるが、汚染が米軍起因であるといういわば、「立証責任」は、北谷町側にあった。そのために、北谷町は2012年5月に地権者土地における地盤調査を実施し、廃棄物が米軍に起因するものであることを示し、9月に調査と廃棄物処理要請の文書を沖縄防衛局に提出している。
汚染が米軍に起因するものであったという判断は、2012年11月15日の沖縄防衛局による北谷町教育次長への返還前の土地使用状況についての聞き取り調査のようである。返還前の地籍図により地権者の土地が窪地であったことや、次長の証言から「返還前は米軍のゴミ捨て場」であったことが確認されたことがその判断根拠となり、2013年1月8日に防衛局は米軍に起因するものとし、対応の必要性があると判断した【9】。沖縄防衛局の予算の確保などでも時間がかかり、防衛局による調査の着手は2015年3月となる。ただし、当該地の隣接地でも廃棄物は発見されているにも関わらず、翌月に隣接地地権者と等価交換していることから、同じ事業地区であるにもかかわらず、隣接地では米軍遺棄物として対処していない北谷町の対応については精査する必要がある。
つまり、北谷町の上勢頭地区では、沖縄市サッカー場とは異なり、廃棄物そのものを見ての米軍由来かどうかの即座の判断が行うことはできず、北谷町が地籍図や証言での状況証拠を示さなければならなかった。その状況証拠により沖縄防衛局は米軍由来のものであると沖縄防衛局は判断したが、廃棄物の詳細については沖縄市サッカー場のような記述や写真がないので不明である。また、この調査は基本的には汚染調査ではなく、地権者の住宅建設を前提とした沈下調査を主な目的とした土質の調査であったため、本格的な全面調査や廃棄物処理を前提にしたものではないことも留意する必要がある。汚染の状態を把握するための調査が実施されたということではなく、追加調査も、以前に廃棄物が発見された庭球場の調査を町が申し入れたのを受けて実施するという、綿密な調査の上にされたものではない。沖縄防衛局が調査を実施しても、このような状況になっており、当該地権者の廃棄物土壌の処理や費用の問題も解決していないのが実情である。
(3)読谷村:地元の投棄
2006年に返還された読谷村補助飛行場跡地も、上述2事例と同様、返還されてから時間が経過している跡地である。2008年に「平成20年県営畑地帯整備事業」が開始され、平成29年度(2017年)に土地改良を完成させる予定となっている。
当該土地は元々国有地であったため、防衛省が米軍に土地を提供し、返還時は財務省(担当行政機関としては沖縄総合事務局)を経て、所有者が読谷村となるという特殊事情があった。そのため、汚染発覚時に、読谷村はその処理についての日本政府内の要請先、すなわち責任の所在が沖縄総合事務局か、沖縄防衛局かが特定できず、汚染対策が長期間進められていない事態の一因となっている。
防衛省や沖縄防衛局は、読谷村の土壌汚染は、他所からもちこまれたものが原因であり、「米軍の行為に起因するものでない」と処理を拒否している。しかし、これは汚染が発覚した当該土地の一部を見ての判断であり、そのように断言できるものではない。上述2件の跡地の状況をみると、沖縄の米軍跡地に投棄されたものは投棄者が米軍、民間とどちらに特定できる状態のものとは限らない。また、汚染がみつかったきっかけとなった磁気探査も、整備事業のための調査で土地浄化のための調査ではない。沖縄市サッカー場、北谷町、読谷村の事例のどれも、米軍跡地であるのにもかかわらず、法制度の不備のために、返還後に十分な調査や浄化作業を経ずに、直ちに開発事業に入らざるをえない状況となっていた。これは米軍跡地を抱える沖縄の特殊状況であり、現行法の不備の問題でもある。
読谷村側は、提供施設の時に汚染されたのであれば、村は手を出すことができないため、国の管理責任があるという主張をしている。上述のような状況も踏まえ、一部の土地のみで汚染が米軍に起因するかどうかで、責任の所在を判断させないことが妥当と思われる。
むすび
このように、現在の私たちの生活空間にある米軍跡地は、投棄による汚染の可能性が高く、米軍の投棄物のみで構成されていないことも判明してきている。このような現実を踏まえ、行政は対処していく必要がある。米軍の汚染であることを立証することで処理までの時間を費やすことは、安全面でも開発面でも市民にとってよいことではない。米軍基地を抱える沖縄の特殊状況を包括的に判断し、対処することが必要であろう。
また、跡地利用特措法が適用されない事例がこの数年、相次いでいる。今回の読谷村の事例は、「たらい回し」で放置された部分も大きいが、依拠する法制度がなく、村が「立ち往生」したことも考慮しなければならない。跡地利用特措法以前で、返還後、すぐに区画整理、土地改良などの開発事業に入った土地は、再開発で汚染が発覚する可能性がある。これについては、発見者が直ちに通報し、行政が対処できる体制を整えておく必要があると考える。